1本の「大木」を想像してみて下さい。
大地にしっかりと根を張り、どっしりとした幹からは、枝が幾重にも広がり、
葉は活き活きと生い茂っております。
大きなその幹は、腕を回しても抱えきれそうにありません。
重なる枝の間からは、木漏れ日が優しく降り注いでいます。
天へと向かう枝葉の、その先の方に居るのが “ あなた自身 ” でございます。
そしてさらに、その枝葉からも新たな芽吹きが始まろうとしています。
大地に張った根。大きな幹は「過去」であり、累々のご先祖様であります。
これから芽吹かんとしている若葉は「未来」であり、子供や子孫であります。
そして、幾重にも広がった枝葉の先が「現在」であり、自分自身でございます。
過去と未来。 そして、今現在。
過去と未来との真ん中の今。
それが【中今】(なかいま)と申します。
遠い過去があって現在があり、この現在がまた、未来を築いて行くのでございます。
その真っただ中、この一瞬こそが「中今」であります。
言い換えれば、今この瞬間に、過去も未来も全てが同時に織り込まれて存在している。ということ。
枝葉の下には、必ずそれを支えている幹や根があり、その枝葉が無ければ、新たな芽吹きもありえない。ということでございます。
つまり、自分自身が今現在この世に生を受け、人生を歩んでいるのは、
遠い過去から今まで、ひとつも欠ける事のなかったご先祖様の存在があり、
同じように、絶やすことなく、このバトンを未来へと繋いで行かなければならない。
そのために、この一瞬一瞬を精一杯に生きる。ということ。
さて、「誓約書」という言葉はちょっと嫌だから、「謝罪文」をこっちで書いて送りますので、内容を見てみてダメだったら言って下さいね。
という更なる要求にはもう「え?・・・いや、あぁそうですか。
まあ、もうどうぞ、好きなようにやって下さいな。」と言う風に、
半分、「正直、どうでもいいや」と。
「諦め」ではないのですが、呆れるというか「見限る」といった方が近いのか。
まぁとにかく、相手が納得するようにやってもらうことに致しました。
暫くして封書が届き、中にはA4のコピー用紙に「謝罪文」として、
過失を全面的に認める。という事や、
多大な迷惑を掛けた事を謝罪する。
という事などが綴られておりました。
また、旦那さんからも “ 車の所有者として ” という形で、同じような謝罪文に、
過信して妻の言い分が「正しいに決まっている。」と決めつけ、
精神的被害を拡大させてしまった事に対しても謝罪いたします。
とありました。
・・・う~ん、そうですね。
はい、分かりました。
まぁ、規範的な・・・当たり障りの無い謝罪文にはなっています。
ただし・・・結局、最後まで、あくまでも信号は「見間違えてしまった」とあり、
「見落としていたのだが、つい、こちらが青信号だったと言ってしまった。」とか、
「お互いカメラも無く、ばれないだろうと思ってしまい、気の迷いで・・・」とかいったような、
【過則勿憚改】のように、
「おっ、正直だね。潔くて、あっぱれ!」
とまで思わせるような、心を震わせる様な文章は見られません。
ですが、まぁこれでいいですよ。
取り敢えずは。
これ以上追い詰めても逆効果でしょうし、
なにより、もういいかげん決着をつけなければ。
ここまでに、事故の日から数えて凡そ35日です。
警察に証拠の映像が在る。と発覚して、
過失を認めてからでも21日です。
この間に、春の大祭や彼岸祭も終わってしまいましたよ。
あ~長い。 本当に時間がかかり過ぎです。
すみませんが、いつまでも付き合っていられません。
今回はここまでで良いです。
今回は。
・・・ただ、
お天道様はいつまでも見ています。
「中今」を生きている間は、いつまでも。
時間が掛かってもよいので、後は、
どうぞ、ご自分の中の「本心」とじっくりと
向かい合って頂き、
いつかはお天道様に真っ直ぐに
堂々と顔向けが出来ますよう。
過去と未来の真ん中の今。
かけがえのない一瞬、この時を。
是非、これからは魂を磨きながら、
精一杯に「中今」を生きて頂きたい。
と、切に願うばかりでございます。
『神主の体験』その⑮ ~ 八幡神と直毘神 ~ (完結)へと続きます・・・