高知八幡宮とは
往古、大高坂氏が高知城(大高坂城)の守護神として石清水八幡宮から勧請し城内に鎮祭したと伝えられ、慶長年間山内氏入国以来土佐藩主直祭の社として、又、城下、高知街、北街、下知村の産土神(氏神)として尾土に遥拝殿を設けて氏子の祭祀を奉仕していたもので、明治三年遥拝殿を、明治四年高坂鎮座の本宮を現在地(山田町)に奉遷し県社となり以来、前記地域の氏神様として又文化産業開発、商業繁栄、交通安全、厄除等の守護神として広く崇拝されております。 (案内板より)
高知八幡宮の歴史
鎌倉時代末期、大高坂松王丸が大高坂城内に勧請
当神社が土佐の地に勧請されたのは、今から700年以上も前、鎌倉時代末期と思われます。
当時、高知市周辺の領主であった大高坂松王丸(おおたかさか・まつおうまる)が、大高坂城(現在の高知城の位置)の守護神として京都石清水八幡宮から城内に勧請したと伝えられています。
高知八幡宮の起源は大高坂城内であったことがわかります。
しかしながら、正確な勧請年月や縁起沿革などは未詳です。
江戸時代、土佐藩主直祭社として
松王丸は、南朝方の核として北朝方と戦いを続けていましたが、暦応3年=延元5年1月25日、北朝との激戦の末、命を落とされました。
しかし、その後も神社は大高坂に在りました。
時を経て関ケ原の戦いや徳川家康の征夷大将軍に任官されるなど激動の時代・慶長年間(400年前)に山内一豊公 が土佐に入国し、高知城を築城しました。
その際、八幡宮は、本丸から遷座(神霊を移す)することになり西ノ口御門内杉に社殿が建立されました。
以降、270年間、城内城下鎮守の神 として崇敬されてきました。特に藩主の崇敬篤く、土佐藩主直祭社となるとともに、城下高知街、北町、下知村の産土神(氏神)として城外尾土(城のすぐ北側)に遥拝殿を設けて氏子の祭祀を奉仕して来ました。
旧藩時代(江戸時代)の当宮の祭礼は 高知祭 と称し盛大を極めた記録が多く残っております。
明治維新後、山田町(現在のはりまや町)へ
幕政が終わり明治維新後、「氏子の中心地へ氏神様を迎えたい」との城下庶民の強い懇望により、氏子の中心地である現在地に明治3~4年にかけて、奉遷(移し)しました。
そして、国家の宗祀として国の管理下に置かれる事となり、明治5年には、郷社の社格を定められました。
その後、明治13年に藩のお抱え大工で池川伝次氏の造営による豪壮な社殿を造営し、明治19年には県社に昇格しました。
正式名称を「県社八幡宮」と称し、氏子の皆様には「山田町八幡さま」と親しまれ高知城下中心地の氏神様として、また文化、産業の守護神、厄除け、開運、交通等の守護神として広く崇敬されてきました。
昭和21年には国の管理を離れ、宗教法人となり神社本庁に所属、昭和42年に「高知八幡宮」と改称しました。
第二次世界大戦・高知大空襲から現在まで
昭和20年7月4日、高知大空襲により高知の町は焼け野原になりました。町の中心に在る当神社も、社殿を焼失するなど、大きな被害を受けました。多くの氏子さんが命を落とし、家を失い、悲しみに包まれました。
しかしながら当時の宮司が命からがら、御神宝を避難してくださったことが一つの希望でありました。
そして、御自身たちが生きることに精一杯であるにもかかわらず、命をとりとめた氏子の皆様より御支援をいただき、昭和28年に再び社殿を構えることが叶いました。
高知八幡宮の御祭神
高知八幡宮の御祭神、応神天皇・神功皇后・宗像之三女神を総称して「八幡大神」と讃え奉っております。
「八幡」は、元は「ヤハタ」と読まれており、神功皇后が新羅討伐の際に「八本の旗を立てられた」ことが由来です。
応神天皇 おうじんてんのう(品陀和気命 ほむだわけのみこと )
第15代天皇。仲哀天皇の第4子、御母は神功皇后。
八幡神と同一とされています。
神宮皇后新羅征討(朝鮮半島を制圧)の年に、筑紫の蚊田(現在の福岡県)にお生れになり、軽島の明宮(奈良県橿原市)に天下をお治めになられました。
前代の新羅征討の後を承けて内治、外交に聖徳高く、阿直岐(あちき)、王仁(わに)ら三人の帰化人を受け入れ、中国の文芸や工芸などを積極的に導入しました。
日本に初めて文字を伝え、学問を受け入れ、我が国威を挙げられた天皇で 産業開発、文化学問守護の神徳高い神様です。
神功皇后 じんぐこうごう (息長帯比賣命 おきながたらしひめ の みこと)
第14代仲哀天皇の后。御父は気長宿彌王。
常に神威(かむい=神の威光)を畏んでいらっしゃいました。
神功皇后の御懐妊中、仲哀天皇が崩御されました。
その後、国の大祓をして、自ら神主となり神慮のままに九州から国を渡り、新羅征討を成し遂げました。
御帰国の後、筑紫(今の福岡県)にて応神天皇(品陀和気命)生み給い、多年にわたり応神天皇の摂政として我が国の開化期の文化を築かれました。
当八幡宮に伝わる御神宝は「神功皇后熊之腹帯」と称し、御祭神のお使いになられたものと伝えられ、 安産守護 の御神宝であります。神功皇后熊之腹帯には山内茂道の「因縁記」の巻物が添えられており、それから按ずるに皇室より長く四条家に伝わり、山内家を経て御祭神由縁の当宮に奉納せられたもののようです。
交通・文化・安産・勝運 等の守護神です。
*安産祈願のお申込みは、随時お受けしております。お気軽に声掛けください。
宗像之三女神 むなかたのさんじょしん
応神天皇、神功皇后の尊崇された三女神。多紀理比賣神(たぎりひめ)・市杵島比賣神(いちきしまひめ)・多岐都比賣神(たきつひめ)の名で、合わせて比賣神とも申し上げます。
三女神は天の安河での天照大神と須佐之男命の誓約によって出現せられた神様です。
三女神は天照大神から「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と神勅(神からの命)を示されました。
神功皇后の新羅征討の際、神威を現し給われたとされています。
八幡三座の神として奉斎され、 陸上海上交通守護 、殖産興業 の霊威高い神様です。
源氏は八幡大神を一門の総氏神として武門の守り神としていたとされています。
源氏の武将、八幡太郎義家 は名前を頂き八幡大神の庇護の元、数々の武勲を挙げられました。また、仏教も大神を早く取り入れ、八幡大菩薩の尊称のもとに崇敬されております。
高知八幡宮の不思議
八幡宮と鳩
高知八幡宮の御祭神は、京都・石清水八幡宮より分霊されたものですが、さらにさかのぼると、石清水八幡宮の御祭神は、八幡神社の総本宮・宇佐八幡宮(大分県宇佐市大字南宇佐字亀山)から分霊されたものです。
宇佐神宮、八幡神の古記録、託宣(神のお告げ)を記した「宇佐八幡宮託宣集・霊巻の巻5」にて、応神天皇の神霊が、山頂の巨石から「金色の鷹」となって出現し、鍛冶の翁、童子へと変わり、後に「金の鳩」に変じたと記されています。
また、宇佐八幡宮から石清水八幡宮に分霊された時や、源氏が祈願した際に金の鳩が出現したと言われています。
そのため、全国の八幡宮には鳩の絵柄が、いたるところに描かれております。
また八幡宮の「八」の文字を二羽の鳩が向かい合わせになっている様子に合わせ「向い鳩」を成しています。
御神宝・神功皇后の「熊の腹帯」は安産祈願にご利益あり
現在当社に伝わっている唯一の御神宝は熊の腹帯と申し、高知大空襲の夜も御神体と一緒に奉遷した御物で、平素は本殿内に奉安してありました。
当宮は古来、安産の守護神として信仰が高く、現在も妊婦の安泰と胎児の息災成長、安産祈願の方が多く参詣されますが、それはこの御神宝の御霊験によるところが大であり、今も副霊璽として御奉安しております。
御祭神の神功皇后は古事記、日本書紀の記述にもあるように、応神天皇を胎中にされたまま九州に御出征になられ、その際、御着用になられたという御腹帯が御神宝として当宮につたわったものと思われます。
この御物は長さ5寸8分の蝋状紐形で、熊の足の爪二足分が添えられています。更に奉納した山内茂道の記した『因縁記』がありその内容から考えますと、この御神宝は皇室から四条家に伝わり長く保存されていた御物で、宝永年間に土佐山内家に伝わり、その後城内八幡宮に奉納されたものと思われます。( 写真は昭和7年11月3日付「土陽新聞」記事)
*安産祈願のお申込みは、随時お受けしております。お気軽に声掛けください。
宮司・別役重具 著書本
高知城内・城下の鎮守神 高知八幡宮史 山田町のはちまんさま
さらにくわしい高知八幡宮史については
当宮の宮司・別役重具が著作した
「高知城内・城下の鎮守神 高知八幡宮史
~山田町のはちまんさま」
をお読みいただけると、さらに深く楽しむことができます。
高知・リーブル出版様より出版されており、
オーテピア高知図書館にも蔵書として所蔵されています。