神道(しんとう)に於いて、人は、神様の “ 御分霊(わけみたま) ” を頂いて、この現世(うつしよ)に生まれ落ちます。
そして、一生を終えますと、再び神様の “ 元神霊(もとつみたま) ” へと帰一(きいつ)するのであります。
つまり、人は産土大神(うぶすなのおおかみ)から御神霊の一部 = 魂を分け与えられて、一生をかけてそれをお預かりする。 と言えます。
神様からお預かりした魂は、「綺麗なまま、お返ししなければならない。」のです。
だから普段の生活の中で、罪や穢れ・咎といったものにまみれて魂を汚してはならない。
始めは玉の様に丸く輝いていた魂を、一生を終える頃には凸凹に歪み、くすんでズタボロになった状態で神様へお返しするのは良くない。 ましてや、これから神様にお仕えをして行く立場の神職となれば尚更だ。
・・・これは、私が神職になりたての頃、初任神職研修のなかで頂いたお話であります。
要は、人間としてこの世に生まれて来たからには、一生をかけて成し得るべき使命を見出し、それに向かって懸命に素直に正しい道を歩みながら「魂を磨け!」
という事でございます。
さて、意を決して診断書を提出しようと訪れた警察署で「事故の瞬間の映像が実はある。」という、神がかり的な奇跡にも近い展開となり、しかもこちらの証言の通りに信号は青信号だったという確証を得たのでありますが、
【糺咎顕真】のご祈願どおりに、迅速な神業を以って神慮が顕された事となり、これはもはや、決着と言ってもよろしいでしょう。
更に言ってしまえば、こちらが相手側への生殺与奪の権を握ったと言っても過言ではございません。
事故の規模からも、場合によっては命の危険や大怪我を負っていた可能性もあり、2週間にも亘る精神的苦痛を強いられた事への償いとして、
このまま診断書を提出して人身事故とし、警察の捜査を受け、違反が発覚した相手側の方には刑事罰が科せられ、社会的制裁を受けてもらい、更に言えば慰謝料を請求する・・・という道を選ぶのか。
それとも、「事故の瞬間が記録された映像を、警察が入手・保管されているようですよ。」という事実を相手側に告げるのみとし、
「さぁ、どうしますか?」の最終通告に於いて、全面的に自分の非や過ちを認めるのであれば、今回は情けをかけて、もう今後同じような過ちを犯すことなく、まっとうな道を歩むよう更生を促す・・・という道を選ぶのか。
前者のように「ほれ見た事か!どうだっ、倍返しだー!!」とやってもそれは、素直に正しい道を歩みながら魂を磨く。という事にはならないのであります。
ましてや、相手側にとっては反省や後悔もするでしょうが、おそらくは同じくらいの恨みや憎しみの感情も抱く事になってしまうことでしょう。
そうすれば、魂はより穢れる事になります。
そこに救いや導きの要素はございません。
それに【糺咎顕真】の祝詞では「嘘をついて陥れようとする相手を懲らしめて、やっつけて下さい。」とお願いしているのではありません。
「弱い心の淵に囚われている者を其処から引き出し、まっとうな人の歩むべき正しい道へとお導き頂いて、道徳的な行いをしっかりと選択できるように助けてあげて下さい。」と祈願をしたのでございます。
であれば、そうなるような道の方を選択すべきでしょう。
持参していた「診断書」はいったん引き下げる事とし、警察署を後にしてから、事の成り行きを保険の担当者を通して相手側にお伝えしたのでございます。
・・・が、ここからがまた長かった。 すみません、もう少しだけ続きます💧
『神主の体験』その⑫ ~ 過則勿憚改 ~ へと続きます・・・